各々の問題意識

最近、帰国子女の友達複数人が同じ文章を投稿していた。出回っているようだ。

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要するに「全ての人が同じ問題意識を持っているわけではない。しかし、何かしらの問題意識を持っているだけで偉い。同じ事柄を問題視してくれないからといって、批判するのは御門違い。感謝し、教えてあげよう。」こんな趣旨だ。

これを読んで、納得し、反省する部分も多かった。自分の正義を他人に強要するなということだよね。

ただ、自分の中で譲れないもの・許せないものはそれぞれあるはず。それを認めてくださらない人なら絶交よとまで怒ることなんてあるでしょう。そこの線引きが難しい。

例えば、最近母親と喧嘩した。「選挙に行って欲しい」と一言申し上げたのがきっかけである。選挙は行くべきだと思う。少なくとも家族には行ってほしい。でも、母親はこの一言で傷ついたようだし、不穏な空気になり、私も悲しくなった。

そして母の言い返しは「他人に指摘するほど、全てできているの?」という趣旨だった。政治のことを全て理解し、政党の公約をわかりきって強い意志を持って投票しているのか、ということだろう。とても日本人らしい考えだと思った。自分が完璧にできていなければ、何も言う権利はない。

私はでもやっぱり、そんなことはないと思いたい。最初の英文みたいに、それぞれいびつな思考を持った人間な訳で、完璧になることなど有り得ない。身勝手でもダブルスタンダードでも、言いたいこと言えばいいじゃないの?そしてそれが自分自身に返ってくるとして、それによって自己成長もできるんじゃないのか?つまりあれですね。問題提起をしてもいいが、怒ることはやめましょうという結論です。

愛の模索、映画『あの頃エッフェル塔の下で』

映画『あの頃エッフェル塔の下で』(2015) を観た。フランスの有名な人が監督らしい。映画の筋は、50代の男が自分の人生を振り返り、若き頃の大恋愛を思い出す話。私は失恋をしたばかりだから、丁度、これまで持っていた恋愛への向き合い方を揺さぶられている最中にあり、だからこの作品は刺さった。

まず、やっぱり恋の存在の大きさを知る。何事にも例えられないような大きな衝撃を受ける。自分の思考や行動を、頭ではコントロールできないということを思い知る。この男は、20年以上経ってもその時のことを思い、リアルな感情を持つ。若き頃に自分の恋人を奪った男に怒りをぶつける。

ただ、恋は苦しい。こういう恋を描いたフランス映画でハッピーエンドのもの(最後まで結ばれている)なんてあるだろうか。破滅の運命にあることを指し示しているよう。

同時に、恋は稀だ。若い頃にしかできないのかもしれない。先生が言ったように「結婚は簡単にできる」ただの契約。そんなものに恋はないのかもしれない。

結論、私は先の大恋愛(破滅)を経験したことを有り難くも思い、絶望とも思いなんとも言えない。人生に一度きりレベルの恋を経験せずに死ぬのは御免だけど、もう来ないかもしれないと思うと辛い。早く立ち直り、未来の恋人に出会いたいわ!と嘆いたひと時もあったが、こればかりは偶然の産物。息を潜めて来たる未来を待つしかないのね。

観察の義務

 

椎名林檎さんがNHKの番組で、「愛は知性にしか宿らない」と言っていた。

最近悲しいニュースが多く、この世がいかに深刻に黒ずんでいるかを目の当たりにしていた。例えば、虐待されてきた子供が大人になって起こした事件。そういった話を聞くと、では自分は子供を持つべきなのか、持つならどう振る舞えばいいのか、なんてことを考え込んでしまう。

簡単に言えば、やっぱり人はみんなこの世界の一部で、世の中に対する責任がある。当たり前だけど、「そうであるべきなのだ」という感情がこれまでになく湧き出てくる。知らないといけないことだらけだと思う。それを辞めてはいけないと思う。

社会で人は生きている。だから一人の人間は必ず他に影響を及ぼす存在なのだ。ひきもりの人でさえ、ひきこもることを選択したこと自体、生み出す影響がある。だから、自分がどうあるべきか自問自答していかないといけないと、一人の人間として沸々と感じている。

たくさんの感情を感じるから、余計に泣いたり余計に怒ったりする。でも、そのことが自分の誇りだ。正しいと信じたことを積み重ねていきたい。